2005年03月24日

軍艦島の映画館

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在りし日の昭和館
軍艦島(端島)にあった映画館です
遠方に高島が見えています。
かっては映画を楽しみ、島の祭事ではイベントホールになり
多くの島民が集まり賑わった場所です。
現在は台風で建物は崩壊しいくつかの柱だけしか残っていません
昭和館の裏に見えるピンクの建物が公民館です。
この建物はまだ現存しています。
ちょうど見えているの窓は3階です。
西側の岸壁に上がる波しぶきは時には岸壁を越えてきたものでした。
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2005年03月19日

軍艦島と高島の石炭

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軍艦島(端島)の石炭です。黒光りしています。まさに黒ダイヤです。


sekitan.jpg

高島の石炭です。長崎市のとあるお店で販売されています。





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2005年03月17日

軍艦島のボタ山

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軍艦島のボタ山・・・右の建物は31号棟

東側の炭鉱施設からトンネルで突っ切って31号棟アパートを貫き
アパートの2階の窓からベルトコンベアーで排出されるボタ
海底炭鉱であれボタ山は存在した。
このズリが後にメガネ(ゴミ捨て場)や学校海岸まで流れ
干潮時には渡れるほどの砂浜(ズリ浜)になり遊び場としても使っていた。
posted by dyg at 10:43| 長崎 ☔| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年03月08日

産業遺産としての軍艦島

65.jpg

近代産業遺産が果たして我々にとって何なのか
軍艦島を代表とする産業遺産がただ単に廃墟としての扱われ方や無用の物として
崩壊をただ見ているだけなのか・・・
しかしこの島を築き上げてきたものは、今の私たちの生活とは
何も関係ないのか?
今ある日本の産業、生活にこの島は何も影響しなかったのか・・
石炭が・・今忘れ去られようとしている日本
日本で唯一の資源が消えて忘れ去られることが本当に望ましいのかを考えて欲しい
役に立たなければただのゴミ(廃墟)としていいのだろうか・・
30年の時間の中でひたすら眠り続けてきたこの島に光を当てることができるのか
しいて言えば近代の産業遺産すべてに光を当てられるのか・・・
千年前のことに対して考えようとしているのではなく
ほんの一昔前のものに対して思いを向けてみて欲しい
それは父であり母であり・・祖父母への思いと彼らの語りを聞くことで
その時代のことを考えられる・・
それが私たちが後世に残していくための次の語り部にならなければならないと思う
戦争であり、原爆であり、そして国を支えてきた産業の痕跡を
残していくことが我々の役目ではないだろうか。
聞いたり見たりすることで私たちは歴史を知ることができる
そこにあることで大きな博物館になる産業遺産がある。
壊すのは簡単だろうけど・・
消えてしまえば誰も思い出さなくなる
この島にあった建造物、炭鉱、そして生活(コミュニケーション)を考察していくことで
いいものを忘れ去れていく時代に警鐘を鳴らすこともできる。
posted by dyg at 08:22| 長崎 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年03月04日

軍艦島クルーズ

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本日、新装船「マルベージャ3号」にて軍艦島クルーズのガイドをしてきました。
今年の2月に「やまさ海運」が新しく導入した船です。200名乗りで
本日が軍艦島クルーズの初就航です。
軍艦島までの往復をクルーズを含めて90分でした。
今までの2号に比べてかなり速くなっています。
波が2.5Mと北西の風でかなりの揺れがありました。
修学旅行の生徒さんたちは、大阪の中学校からで、港の中は静かな波だったのが
外洋に出てからの船の揺れに悲鳴を上げていましたが
何とか軍艦島まではたどりつき、西側には回れませんでしたが、船に揺れながら
軍艦島を目を見開いて見ていました。
船酔いの生徒さん大変でしたね。
でも船は揺れるもの、外洋の海の厳しさを経験できたと思います。
こんな荒れた日でも、船が欠航しない限り私たちの交通手段は
この船だけだったのです。
皆さん、お疲れさまでした。
posted by dyg at 16:30| 長崎 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年03月03日

軍艦島地獄段の風景

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「義父のスクラップブックより」

軍艦島(端島)風景でよく使われるのがこの地獄段である。
なぜ「地獄段」なのか?
昔からそういう風に呼ばれていたと言うしかないのだが・・
それだけ急勾配の階段ではあったが神社や、日給の8階、9階へは
簡単に行けた通路である。途中に良く遊んだ「ビー球場」もある。
ビー玉場のそばには「50段」もあった。そこはちゃんと50段の階段がある。
ここを上ると65号の7階に到達する。
さまざまな空中廊下にしても人がいかに合理的に移動できるかを考えられた
島の建物の付属物だったと思えるのである。
住んでいた当時は、特にこの階段をきつい思いをして、登り下りした記憶はない。
posted by dyg at 10:15| 長崎 🌁| Comment(1) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年03月02日

軍艦島の風景

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軍艦島(端島)65号棟のある日の風景。
日差しの中で洗濯物があちこちのベランダにゆれている。
公園では子供がブランコで遊んでいます。
当時の写真でカラーは珍しいと思います。
モノクロだと変に暗いイメージが付きまといますが
このようなのんびりとした風景もあったのです。

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2005年03月01日

軍艦島のアンテナ

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ここに写っている竹のようなものは
軍艦島の建物の屋上に立ててあったテレビの「アンテナ」です。
昭和30年代からの電化製品の普及率は軍艦島は目覚しいものがあったという。
家賃、ガス、水道、電気代がただ同然であったからどの家にも冷蔵庫、テレビ、洗濯機が
所狭しとあった。テレビにつき物がアンテナだ。
どの屋上にも似たような風景があった。さながらアンテナの林である。おかげで
島であってもさまざまな情報が入ってきた。
今でも島に取り残されたテレビが頑固に4本の足で立っている。
posted by dyg at 15:13| 長崎 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月26日

軍艦島・・日本の未来図

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この新聞の切り抜きは年代ははっきりしないが
多分昭和30年代だとは思われる。
義父が長年スクラップしてしていた「軍艦島」の一枚である。
そのスクラップブックににはさまざまな表情の軍艦島(端島)がある。
この一枚も見出しは「日本の未来図」である。
記事の内容は・・・
「狭い土地は縦に宇宙間に延びていく。長崎のかなた、この端島(軍艦島)の風景は
何世紀先の未来図かもしれない。」
と記してある。
この記事と現在のこの端島(軍艦島)を対比すると
エネルギーが自給できなくなった「日本」の未来だとしたら
考えるだけで空恐ろしくなるだろう。
廃墟を作っていくのは人間のエゴではないだろうか・・・
この島だけではなく多くの産業遺産に対して
過去の存在価値を見直す時期にきているのではないだろうかと思うのである。
posted by dyg at 17:48| 長崎 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月25日

軍艦島30年目の記憶-2

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写真は軍艦島(端島)の学校のグランドの一部である。
左にテニスコート、その後方に見える2階建てのアパートは「ちどり荘」と呼ばれた先生の宿舎。右の建物が体育倉庫がある。
右側の端から二番目の黄色い建物がトイレである。
NHKで放映された「深く潜れ」で3年前に少し改修された。スズキアミちゃんも使用した場所である。中央に鉄棒が見えるがここをサッカーのゴールにしていた。
遠方に中ノ島、高島が見えている。
学校は7階建で4階までが小学校、5階と7階が中学校6階に講堂と図書室、音楽室があった。昼休みは給食がなかったので、弁当か各自自宅に帰って食べる。どの家も狭い島だから苦にもならない。放課後はグランドはクラブ活動で使われ、休みの日にはサッカーや、野球が盛んだった。狭い島の狭いグランド、直線で100メートルを取ることはできない。
昼休み放課後は小中学生入り乱れてのにぎやかさだった。
posted by dyg at 11:04| 長崎 ☁| Comment(3) | TrackBack(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月24日

軍艦島の遺産

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3月下旬 長崎新聞社:長崎新書として刊行予定
予約受け付けています。
詳しくは
http://www.dotoku.com/
http://www.gunkanjima-wh.com/
posted by dyg at 12:11| 長崎 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

長崎市、「軍艦島」の観光活用を検討

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 長崎市は採炭期の建物を残す軍艦島(端島)を保存し、観光で活用する方策の検討に乗り出す。土木の専門家らによる検討委員会を設置、どの建物をどのように保存するか、ライトアップをどうするかなどを研究する。伊藤一長市長は「護岸が崩れるなどで上陸は難しいが、新年度中に活用の方向性を出したい」と話している。

 外観が軍艦に似ている島は産業遺産として注目を集め、昨年には海上から見学ができる定期航路が開設され、観光客らの人気を集めた。島のある旧高島町は今年1月に長崎市と合併したため、活用策を探ることにした。同日発表した2005年度の当初予算案に盛り込んだ。

 2005/02/24 日本経済新聞社 抜粋

上記の記事について
ライトアップをすることによって何か効果があるだろうか?
光の当て方が何か違うような気がする。
活用の具体策や保存についての細かい議論が必要だろうと思う。
ただ今までの対応から比べれば「産業遺産」として認めてもらったといえるだろう。
今まで行動してきたことが行政にもすこしずつわかってもらえたと感じている。

posted by dyg at 09:14| 長崎 ☔| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月23日

65号棟

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この写真はこの軍艦島の最大の住宅65号棟。(昭和24年完成)
ここの向かって左の最上階9階が私の住んでいたところだ。奥から二軒目のベランダに
私の1畳ばかりの部屋があった。
父が私のために、こしらえてくれたものだ。
下に見えるが端島公園、毎日子どもたちのにぎやかな声が聞こえていた。
昼は多くのベランダに洗濯物がゆれていた。
夜はにぎやかな声と、灯りが灯る部屋々。。。
風呂は共同風呂(一部職員の社宅には内風呂があったが)でトイレは
向かって左の棟と真ん中の棟は共同トイレであった。
左の棟は昭和33年に完成したあたらしい棟(新65号棟)にはトイレが部屋にあった。
入口も古いほうの65号棟はガラス戸であったが新65号棟は鉄の入口であった。
階段においては旧の65号棟のほうがゆったりとした踊り場もあり
階段の勾配も緩やかであったが新の方は狭く勾配も少しあった。
人が多くなり始めた頃でとにかく多くの住人を住まわせるためにそういった傾向になって
行ったのだろうと思われるのである。
部屋は長屋のように真ん中に廊下があり夕方には隣近所のおかずのにおいが充満していた。
トイレがあろうとなかろうと差別なく育った時代である。
posted by dyg at 13:41| 長崎 | Comment(1) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月21日

軍艦島30年目の記憶-1

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ポストが残っている・・
かすかに両親と妹、そして私の名前が記してある。
中学生の時に私が技術工作で作成したものでる。

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ポストの奥に4畳半と6畳の部屋が広がる
親子5人で暮らした部屋である。

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緑の壁は台所である。何故かこの部屋は「グリーン」が多かった。カーテンも緑系で今もそのきれっぱしが残っている。
台所といっても今のようなステンレスではない。
すべてがコンクリートである。
ここで母親が毎日食事を作ってくれた。

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箪笥が今でもこの形で残っている。9階だったから風雪に耐えながらも
こうして残っているのには奇跡だ。この下に火鉢があり親子の寝室でもあった。
狭いながらも床の間のスペースもあった。

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コの字型の65号棟。
ベランダからプラバシーなしの風景が見える。
毎朝ここから下を眺めたり
夜の明かりのにぎやかさを楽しんだものだ。

今でも残る部屋の原型にタイムスリップして
その頃の思い出がよみがえる。

posted by dyg at 13:11| 長崎 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月19日

苦悩

今までやってきたことに対する「否定」の言葉があることがある。
軍艦島(端島)の保存に関してである。
私の中では整理されていた活動のモチベーションが時々切れるときがあった。
それは「端島(軍艦島)」をそっとしていてほしいという言葉だ。・・・・
活動の当初から相談に行った長老からも出てきた言葉である。
端島出身の人たちに共通する言葉だ。
私がやっていることは間違いなのかと迷いを持った時期もあった。
しかし、この島の歴史や、文化的な遺産や、日本の近代化を支えてきたその歴史を
その言葉は消し去るための都合のいい「叙情的」な言葉でしかないことにこのごろ
気づき始めた。いかにも日本的な言葉である。
この島の歴史は住んでいた人々の歴史を超えるものがある。
住んでいたときには当たり前として生きてきた町が、今の日本の社会に不可欠なものを
形成していたことを気づいていない。
この島を研究、考察することによって
今の社会に呼び戻せる人間の「コミュニケーション」の奥深さを
発見できるのである。
叙情的にこの島を「そっと」しておいているよりも
この島での人間のつながり、「住む」という確認
時代においては「強制連行」の負の時代
大正、昭和のよき時代の変遷が残っている、この痕跡を
自分の感情のままに「そっと」では
われわれは後世に何も残せない・・・・
すべてのことを正直に語り接ぐ事こそ
われわれの使命ではないのかと思うのである。
あなたの生きてきた人生を「語り継ぐのは」誰なのか?
苦悩の中で私は
この島をハード的にも、ソフト的にも
保存の方向で選択したのだ。
それをわかってもらおうとは思わない・・・それに反対する人たちに・・
私は・・私の・・信念の人生を後世に伝えるために
生きて生きたいのだ。。。。。。
苦悩は・・・私が生きている間は続くだろう
しかし・・・間違っていないと私は自分の人生に誇りを持っている。

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軍艦島DVD制作者 O-Projectの紹介

oproj.jpg

O-Project
<軍艦島>に感銘を受けたアーティストによって2003年に結成されたメディア制作チーム。
映像、音楽、写真、デザイン、Web等様々なアプローチで軍艦島を作品化することを目標にしています。
また将来的には、軍艦島にとどまらず、日本各地の産業廃墟を取り上げ、暫時作品化していく予定です。
それはこれら前世紀の産業遺産たちが、ものすごく刺激的なオーラを私たちに送っているからです。と彼らは自分たちの紹介をしている。
ある炭鉱や鉱山を研究されている方の彼らへの言葉として
【端島を中心としたDVDや、独自で撮影した各地の廃墟といわれる写真のポストカードを製作したり、またそれらを展示会などで発表し、販売もしているグループ。
  彼等のいいところは単に廃墟を追うのではなく、廃墟を通して「人間」やその「歴史」を考え、そして自らの生き方を考えて行こうとしている姿勢だ。
  その地道な努力は私にもいい意味の刺激があり、学ぶところが多いグループだ】
私もその意見に同感するものです。
廃墟という言葉の表面的だけを見るのではなく
彼らは時間をかけてその場所に対する研究や調査を行っている「廃墟マニア」では決してないのである。今後も協力しあいながらいい作品を作っていって欲しいと願っています。
彼らのHPは
http://www.gunkanjima.ne2.jp/index.htm
http://blog.goo.ne.jp/ruinsdiary/e/448508e9fe7a58d167e2180f28d401ce

DVDの販売はO-ProjectのHP
及び
http://www.dotoku.com/
http://gunshop.seesaa.net/
で通信販売しています。

posted by dyg at 15:03| 長崎 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

夜の軍艦島

akari.jpg 

不夜城と呼ぶのがふさわしいくらいに、夜の島からは灯が消えることはなかった。二四時間操業だから炭鉱施設は休むこともなく働き続ける。
そこに働く人と送り出す家の灯があった。
派手さはないが裸電球は温もりのある灯である。
この一つひとつに家庭があり家族がいるのだった。
島から出かけて夜に帰ってくると、島のあちらこちらから漏れる灯に、ほっとするような安心感があって、船が桟橋に近づくにつれて、こんどは人々の声が漏れ聞こえてくるような気がしていた。
 当時、高島から夜の端島を見たことはあったが、住宅がある西側正面からの島全体は、船上からでしか見ることはできなかったために、私はその位置から一度も夜の島を見ることはできなかった。さぞ明るく活気に満ちて、一軒一軒の窓の灯から話し声までが聞こえてくるほどであったろうと想像できるのである。
野母崎方面から見る島とは、まったく違う表情を見せていたことだろう。
 現在は閉山後に立てられた灯台の明かりがあるだけである。夜になれば灯台の明かりだけで島の姿は夜の闇に消えている。当時は灯台の役目までしていたこの島の灯が、すべて消えて三〇年近く経ってしまったが、ここをライトアップしようという計画があったらしい。しかし私たちが求めている灯は、ライトアップの、見せるためだけの灯ではなく、家族や家庭がともすほのかな裸電球のやさしい灯である。しかし、それを求めることはもう無理なことである。あの灯を取り戻すことができなくとも、われわれの心の中には、あの島の灯は思い出として残っている。灯が消えても、この島が果たしてきた日本近代化への役割や、多くの人たちが暮らしていた歴史の一ページは、社会から消さないでほしいと願うのである。  
posted by dyg at 09:48| 長崎 ☁| Comment(3) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月18日

軍艦島の風景

enkin.JPG enkin1.JPG 
野母崎町の水仙公園から眺めた軍艦島(端島)
かなり遠方に見えます。(右の写真)
ところが同じ水仙公園の入口の軍艦島資料館と物産センターの建物の間から
覗くとこんなに近くに軍艦島(端島)見えるのです?(左の写真)
目の錯覚?窓までもよく観察できます
朝日が当たる時間にここを眺めるともっと詳しく大きく見えます。
不思議なものです。
車で水仙公園入口の道路を野母崎方面に一度のぼりコンビにのところから
ユーターンして最初のカーブからこの建物の間を覗くと「ぎょっと」スルほど
大きな軍艦島(端島)見られます。
一度試してください。
posted by dyg at 09:59| 長崎 ☔| Comment(4) | TrackBack(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月17日

軍艦島の写真と本

kj151_thumb.jpg昨年博報堂を退職された方から電話をいただいた。
今は明治、大正、昭和戦前と日本が建てた近代遺産を楽しむ
「ヘリテージング」をライフワークになされていて
「ヘリテージング研究所」を立ち上げられた。
研究所は有限会社でも財団法人でもなく
気ままな「在宅法人」として活動されている。
春には講談社からヘリテージングの本を
出されるという。
その中に「軍艦島」も取り上げていただいている。
その本に「軍艦島」の写真を挿入したいとのことで
早速手持ちの写真を吟味して提供しようと思っている。
私も春には本が出る予定である。
原稿の上がりの遅さはわが身ながら情けなかったが
何とかなりそうである。
posted by dyg at 13:01| 長崎 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月16日

「軍艦島」近畿日本ツーリストのパンフレット

関東、関西、名古屋の近ツーの長崎向けのパンフレットに
軍艦島のパンフレットが配布されています。
軍艦島を世界遺産にする会が提供した写真もあり、資料としても
価値あるパンフレットに仕上がっている。
その地域の方にしか手に入りません。
今年も多くの旅行社の軍艦島クルーズがありそうです。

panf.jpg
posted by dyg at 16:07| 長崎 ☁| Comment(2) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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